ヤマハ(YAMAHA)の歴史がおもしろい。

コピペ新聞で見かけた、以下のヤマハの歴史を見てとても興味が沸きました。

ヤマハの歴史
・最初は輸入ピアノの修理→楽器関係作る
・楽器やってた流れで電子楽器も作る→DSPも作る
・DSPを他に利用しようとして→ルータ作る
という流れで、楽器、電子機器、ネットワーク関係の製品を作るようになった。

じゃ、なんで発動機や家具とかも作ってるかというと、

・ピアノの修理で木工のノウハウが溜まる→家具を作る→住宅設備も作る
・戦時中に軍から「家具作ってるんだから木製のプロペラ作れるだろ」といわれて戦闘機のプロペラ作る→ついでにエンジンも作る
・エンジン作ったから→バイクも作る
・エンジン作ったから→船も作る→船体作るのにFRPを作る
・FRPを利用して→ウォータスライダー→ついでにプールも作る
・プールの水濁ったんで→浄水器作る
・失敗作の浄水器で藻が大繁殖→藻の養殖始める→バイオ事業化

以上、ヤマハの歴史  – コピペ新聞より引用。

実際にwikipediaでヤマハ株式会社を調べると、概ね上記の内容の歴史に合う所があるようです。富士フイルムも化粧品を開発していますし、このご時世、1つの強みとそこから派生する技術で事業を広げていく必要もあるのでしょうね。

ヤマハ(YAMAHA)の歴史がおもしろい。」への4件のフィードバック

  1. そういえば、東大・本郷の航空宇宙工学科7号館と、駒場の先端研1号館にある、戦前(戦中?)の低速風洞も、楽器メーカー製だったと記憶しています。どのメーカーだったか覚えてないのですが・・・。

  2. ご無沙汰しております。

    7号館横にある風洞ですか?(あの古い?) 確かに楽器メーカーだと空気の流れには強そうですね・・。
    ヤマハはAVアンプも性能が良いですし、広く深くよくやっているメーカーですね。

  3. ヤマハが何でも 「ついで」に作れるようになった訳ではなく、重工業関連部門では、本田宗一郎やその他の技術支援による技術習得があったことに端を発している

    戦時中に、木製プロペラの自動切削機を発案したのが本田宗一郎(当時は東海精機重工社長)、ヤマハの川上嘉市がプロペラの製造を請け負うことになり、同社には当時、重工業関連に技術的素養がなかったため、浜松で共通の知り合いを通じ、本田宗一郎に相談をする

    本田宗一郎は、快くこれを聞き受けてプロペラの自動切削機の製造方法・プロペラの製造技術を供与する
    ヤマハのプロペラ切削事業の特別顧問を引き受けた
    後の本田技術研究所・本田技研工業との遠因はこの時に始まる

    当時(戦時中)、東海精機重工はトヨタに部品を卸しトヨタの資本参加を受けていた
    後年、ヤマハが自動車や住環境事業でトヨタの資本参加を受けることになるその遠因を本田宗一郎が取り持った

    戦後、本田宗一郎は東海精機重工株をトヨタに売り払い、終戦後の1~2年ほど本当に遊んでくらした
    ある日、宗一郎はひょんなことから旧軍の小型発動機を払い受ける
    食糧事情の悪い当時、闇市に妻が自転車で通っていたのだが如何せん距離があった
    何を思ったか、本田宗一郎、発動機を自転車に付け今でいうモペットを作った(既に戦前から存在しており、本田の発案ではない)
    これが、闇市や周辺で評判となる
    暫く、遊んで過ごす気でいた宗一郎であったが、近所の人に頼まれて断る訳にも行かず、戦時中の重工・軍需関連の伝手をたどり、どうにか発動機を手に入れて作ることとなる
    tこれがすぐに評判となってしまい、今度は大量の製造依頼が来ることになる
    戦後の物資不足から画一規格の車体、小型の発動機がなかなか用意できない当時、悩んだ本田宗一郎は、自分で設計する手法を選択した
    本田技術研究所を立ち上げ事業化(町工場)した
    艱難辛苦はあったものの、後に知り合いを介して藤沢武夫を財政担当として迎え入れ事業としてどうにかモノに出来る道筋がたった

    この頃、ヤマハも二輪事業に参入するが本田宗一郎もこれを歓迎し、ヤマハの二輪事業参入を手引きした
    戦時中の、プロペラ切削事業に端を発した、ヤマハの工業部門の技術的成長が奇しくもこの事業への参入へ繋がった
    人の縁とはげに奇縁である

    本田宗一郎は鍛冶職人の倅で小学校卒の根っから叩き上げの技術者
    川上嘉市は帝大工科大(当時の帝大は単科大学制)卒のエリートで、技術的素養はあるものの、実業家・経営者が概ね本業であった
    本田宗一郎と親子ほど年齢差(川上嘉市の方が21歳年上)はあった物の、本田宗一郎の立志伝的な技術開発力を最もリスペクトしていた嘉市は本田を「日本のエジソン」と持ち上げ、ヤマハの特別顧問に迎え入れた

    どうも、生前の嘉市の本田宗一郎リスペクトは度が過ぎていたらしく嘉市の長男・川上源一は、親である嘉市から嘉市の終生に至るまで、ことあるごとに本田宗一郎を引き合いに出され自分と比較されていたことで、本田宗一郎に対する強いライバル心を秘めることになる
    なお、川上源一は、宗一郎より5歳下で、宗一郎の弟弁二郎(宗一郎のすぐ下の弟は乙一郎のため三男だけど弁二郎)とほぼ同年齢

    後年(1970年代~1980年代)、二輪のWGPとバイクの販売台数における、HY戦争への導火線となるとは、この時代、誰が思っていたろうか…
    (本田宗一郎や川上嘉一・源一関係者の伝記による)

    余談であるが、本田技研工業の二代目社長は河島喜好が引き継ぐことになる
    その河島喜好の弟である河島博はヤマハに入社していた
    河島喜好の妻は河島博を介して知り合った河島博の部下の女性である
    弟の河島博もヤマハの社長を引き継いだ
    初期のHY戦争の陣頭指揮を執った二人は図らずしも実の兄弟とは皮肉なものである
    河島博を社長に付けたのも川上源一が自らの懐の深さを見せるためではないか?との憶測も生まれた

  4. YAMAHA40ft オーナーの話を聞き鹿児島県
    知覧特攻平和会館に、大正14年日本楽器製作のぷろぺらがありました。技術は進歩し軍事目的でない時代でありますように。

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