地元の伝統工芸”上田紬”と”真田紐”

某ソーシャルサイトの企業ページで、”今週は上田紬を使ったコーディネート”というものをたまたま見かけました。その企業ページは、いろいろな着物の種類、コーディネートなどを紹介するもので、今週は実際に上田紬を作っている工房の方のご意見も含めた上で上田紬を使った着物を紹介するという内容でした。

以前ならこの内容でも見過ごしていたかもしれませんが、この数年着物を着るようになったのと、茶道を始めたことで目がとまりました。しかも地元である長野県上田市の伝統名産「上田紬」でした。そういえば18歳まで過ごしていた間に「上田紬」という単語は何度も耳にしたことがありました。その時の趣味・趣向で目に付くものは変化するわけですが、このたまたま良いタイミングで上田紬を見つけたので、少し調べ見ることにしました。

まず、実家の母親に電話してみたところ、

上田はそもそも紡績関係の会社も多く(現在は別業種に転換しているが)、日本で2つしかない”繊維学部”が、信州大学上田キャンパスにあるくらい元々紡績が盛んな街であったと。兄が勤めている会社も今は小型モーターなどの仕事をしているが元々は絹糸工業であったりと。そういえば、ウチの実家や母方の祖父・祖母の家でも昔、蚕を飼っていたことを思い出しました。山の畑は”桑”だらけで、その桑の切り株で足を怪我をして縫ったこともありますし(笑)。そんな紡績の街で、”上田紬”はもちろん有名らしく、母方の祖母ももちろん何着か上田紬の着物を持っていたとのこと。茶道の話を含めると、上田紬は物は良いけど、”紬”なのでやはり”格”の問題で茶会などには使えないのでは?あくまで普段・ちょっとした訪問着程度ではないかとのこと。(当たり前の事ですが)着物に格があることを思い出しました。茶道では、ちゃんとした席では格が最も高い袴である必要があります。それでも年末帰省時に地元の呉服屋に行ってみることにしました。いろいろ写真を見ると上田紬の風合いがとても綺麗だったので。

母方の祖母は、既に他界しておりますが、家庭科の先生でした。戦前生まれの家庭科の先生ですから、言ってみればこういった着物など布の扱いは特別と言えるほど器用で小さい頃に私が来ていた服、小物、帽子、バッグなど祖母の手作りの物が多かったことを思い出しました。近年着物を着るようになり、茶道を始めたことを母に話すと、祖母が元気だった頃にその話をしたらきっと凄く喜んだはずと言っていました。おそらく反物だけ持って行けば、仕立ててくれたでしょうし。父方も母方も両方の祖父・祖母にはとてもお世話になりましたが、父方の方は私が保育園の頃になくなってしまったので、色々と物心ついても思い出が多いのは母方の祖母・祖父です。祖父は中学校の理科の先生(なんと父親の担任)でしたので、よく勉強を教わった記憶がありますし、私が宇宙工学の道を目指すと聞いて喜んでくれていました。祖母に関しては泊まりにいっては、いろいろな躾をしてもらいましたし、面倒を見てもらった思い出がたくさんあります。私が和の道に入るのがもう少し早かったら、私に合わせて着物を仕立ててくれたのでは?と考えるとどうしても悔しくて仕方がありません。ばーちゃんが作ってくれた着物を着られるなんぞ、これほど嬉しいものはないなと。母親と話していて、いろいろ残念に思う一方、いろいろな祖母の記憶がよみがえり、そういえば器用なばーちゃんだったなぁと思い出してきました。着物や茶道を通して、上田紬の文字を見落とさず、それを通して、祖母をまた思い出せたのは良いきっかけになりました。

さて、上田紬を調べてみると、江戸時代前期からかなりの生産量だったようで、江戸や京都にまでその紬が行っていたようです。何せ紬は”普段着”ですから、ハレの日では無い限り大衆が普通に来ていたものであり、また江戸時代の「奢侈禁止令」(いわゆる贅沢禁止令)で絹は禁止になったりしたことから、紬の着物はかなり多く庶民に使われた様です。井原西鶴の「日本永代蔵」に上田紬の記述が残っているらしく、

「この手紬の碁盤縞は命知らずとて親仁(おやじ)の着たる」(一六八八年頃)

は?これ?という感じですが、この碁盤縞というのが上田紬の特徴らしく、”上田”の文字はなくともこの紬を指しているようで、命知らず=丈夫(やぶれない)という評価をもらっていたようです。紬といえば、鹿児島県奄美大島(+鹿児島市)の大島紬、茨城県結城市の結城紬が圧倒的ツートップに君臨しており、日本三大紬の三個目に、この上田紬か、新潟県塩沢町の塩沢紬か、石川県白山市の牛首紬のいずれかが入るようです(笑)。それぞれ三箇所とも三大紬と言えば自分の所と主張しており、省庁のお墨付きやら、重要文化財登録にするやら、ユネスコに申請するやらで、いろいろアピール合戦しているようです。別に地元の上田紬が三大に入るか否かはあまり興味がありませんが、wikipediaで上田紬のページがないので、少なくとも劣勢な様相です。そもそも長野県(信州)では明確に有名だった上田紬を、”信州紬”という名前で1975年に経産省で伝統的工芸品として認可されてしまったことにより知名度とアピール度が逆に下がってしまった感がありますね。これを上田紬にしておけば、江戸時代の生産量は確かなものだったようなのでもう少し結果は変わっていたかもしれません。

もともと絹糸を作る際にできる屑繭を集めて(つむいで)作ったのが紬ですから、当時の水仕事なり普段着に使っていたという紬の生成過程を踏まえ、紬の着物の格が低いのはしょうがないのかなと思いました。一方で洋服がこれだけ溢れた世の中では、紬であっても着物を着れば素敵な気分になる気がしますが、晴れの日・褻の日があるのが日本の伝統的な感覚ですから、悪い意味ではなく格が下の紬があるのは良いことだと思いました。善し悪しではなく、格の上下。実際、大島紬なんぞ絹糸で作っているようで、そもそも製法からして歴史的な紬とは様相が異なっているようですし、かなり高価なものの様ですが、紬という文化はこれからも残って欲しいですね。ネットで検索していると、先ほどの”贅沢禁止令”の中で絹が使えないという社会において、紬はその中でできる粋な着物であったと。いろいろ面白いですね。

上田紬を調べてみると、先ほどの上田紬の特徴である”碁盤縞”は、上田の戦国武将真田氏の”真田織”から来ていると。(文献をたどっていないので真偽はわからず)真田昌幸が上田に上田城を築城後、真田織という織物を始め、それが江戸時代になり、そのおこぼれからできる紬が上田紬になったという説があるようです。真田氏のお屋敷なんぞまさに実家から徒歩ですぐの距離にあり、小さい頃から真田氏最強伝説(地元びいき)を植え付けられて育ってきているわけですが(笑)、歴史を遡ると真田関連の織物から始まったことがわかりました。真田といえば、”真田紐”。これは私も着物を着始めた頃から和物集めで注目しており、上田駅にも売っているので、数本買って持っております。強い紐で有名で、大阪冬の陣・夏の陣でも強かった真田氏と掛けて”強い紐”で一躍有名になったと。上田紬から真田紐に繋がったので面白いなぁと思っていたところ、どうやら真田紐は京都にいろいろ工房があるようです。真田紐の発祥は真田氏というのはそれなりに定説のようですが、大阪冬・夏の陣以来、京都あたりでもその紐が伝わって工房ができたようです。その紐に注目したのが、なんと”千利休”。ただ、大阪の陣は利休が切腹するより後の時代なので、事前に真田紐が京都に伝わっていたのか、そもそも”真田紐”と今でこそ呼んでいる紐が既にあったのかなどは興味深いところ。

抹茶茶碗、棗(薄茶器)など茶道具は基本的に桐箱に入れられ、時の有力者(千家家元、大徳寺の和尚など)の銘が入って茶道具の格(+値段)が上がったりします。その桐箱をとじるのに使われる紐に真田紐を使うようにしたのが他ならぬ千利休とのこと。確かに家にある安い茶道具の桐箱にも紐があり、どこかで見たことあるようなと思っていましたが、まさか真田紐とはと驚いた次第です。まさに生まれ故郷の真田氏発祥の紐が、こうやって着物と茶道を通して繋がったのは不思議な縁と感じつつ、むしろそんな真田紐と茶道具の桐箱の関係なんぞ私が生まれる前から決まっていたことで、その関係を気づくようになったと考えるべきか。

上田紬をきっかけに、祖母との思い出、上田紬の歴史、真田紐に繋がって利休に繋がった興味深い探索でした。


四方右掛け・・・のつもり。ちゃんと出来ているかな?

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参考1)上田紬 伝統の技に歴史の風合いが息づく
参考2)千曲川の川風と蚕種製造
参考3)上田紬と真田紐
参考4:これはあくまで雑談程度に)紬はどうして普段着?
参考5)手織り 上田紬 小岩井紬工房

地元の伝統工芸”上田紬”と”真田紐”」への2件のフィードバック

  1. 突然のコメント失礼いたします。
    テレビ大阪「和風総本家」の石井と申します。
    弊社の番組内にてこの真田紐のお写真を使用したく思い、
    コメントをさせていただきました。
    もしよろしければメールにてお返事をいただけませんでしょうか。
    何卒、よろしくお願い致します。

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