“茶の起源”を巡りに京都を訪ねた旅の二日目。
参考(一日目の記事):”茶の起源”を辿りに京都へ赴く(一日目)
一日目は、主に利休に焦点を当てた京巡りでした。二日目は利休よりも前の時代のまさにお茶の起源を辿りました。
京都駅前のビジネスホテルでバイキング形式の朝食を速攻で食べて7:30頃にはチェックアウト。高山寺(こうざんじ)に向かいます。高山寺は京都市内のバス・地下鉄共通のワンデープリペイドカードが使えずJRバス(高雄・京北線=距離に応じて値段があがる)のでコースをよくご検討ください。遠かったです(自転車があれば・・)
(写真は全てクリックすると拡大します)
◆其之八:高山寺 (こうざんじ)
高山寺最寄りの栂ノ尾バス停で下りたところにある案内図。小さくて字が読めない場合はクリックすると拡大します。
高山寺は、お茶にとても関わりのある大切なお寺。案内図にあるように裏参道と表参道があり2つの道があります。どちらも素敵です。是非行き・帰りで両方通られるのをオススメします。(バス停から近いのは裏参道です)
(酷い写真ですが・・)裏参道の様子。結構傾斜があります。これは紅葉シーズンに来たら大変な綺麗さでしょうね。
本当は見た順番に沿って写真を見せながら紹介したいのですが、せっかくの看板なので掲載。クリックすると私の解説以上に完璧な説明がございます
お茶は、遣唐使時代に既に(現在の)中国から日本には渡っておりましたが、遣唐使終了後一度途絶えてしまったようです。再度、お茶を日本に持ってきたのは、臨済宗の開祖”栄西”さん。中国から日本に”禅”と共に茶の種を持ち帰りました。栄西さんは帰国後、(後述する)建仁寺を建立(開山)しますが、その茶の種は、この高山寺の明恵上人(高山寺を再建し、最後まで修行したことで有名)に渡され、ここに日本初の茶園(茶畑)が作られました。そういう意味では、日本の茶の起源はこの高山寺であり、今回の旅の趣旨としては必ず訪れたかったお寺です。
参考 高山寺公式サイト:http://www.kosanji.com/
参考 高山寺Wiki : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%AF%BA
(高山寺はとても凄い寺なので上記のWikiは是非お読みくだされ。貴重な文化財だらけのお寺です)
日本最古之茶園の石碑。この石碑を見たくて今回の旅を計画したのでした。この傾きっぷり(この石碑自体は作られたのは最近で昭和四十六年)が良い感じ。
もちろん今でも最古の茶園は存在しており、今でも抹茶を作っています。茶が伝わった後に日本中で茶の需要が発生し、この茶園だけでは生産量が追いつかず、宇治に茶園が移ったとのこと。とはいえ、この高山寺の茶は特別な扱いだったらしく、高山寺のある地名”栂尾(とがのお)”をとって栂尾茶として別格であったとのこと。その為、”本茶”と言えば栂尾茶を差したようです。闘茶(とうちゃ)という、遊びが流行し、”本茶”かそれ以外かを飲み分けるのが流行ったそうです。
この檻の先に茶園が広がっていましたが、それほど大きくない印象でした。おそらく上層の方達が飲む程度に生産量が少なかったのではないでしょうか。
さて高山寺は、最古の茶園よりも有名なものがあります。国宝で世界遺産の 石水院。ここは大変素晴らしかったです。
石水院の内部。上部の”日出光照高山之寺”は、後鳥羽上皇から明恵さんに渡された”現物”で非常に貴重なものです。この”高山の寺”から高山寺になったとのこと。
石水院の縁側。庭園と山側の風景は一見の価値あり。その素晴らしさの為敢えて写真は掲載せず。是非足をお運びくだされ。
高山寺といえば、この鳥獣戯画が有名かもしれません。前日の祇園での京料理(おばんざい)の湯飲みがまさに高山寺とこの戯画の物でした。高山寺所有ですが、石水院に飾ってあるのは複製で、本物は東京国立博物館、京都国立博物館に保管されています。高山寺は、国宝が八個、重要文化財も多数存在しています。
石水院内に座敷があり薄茶と干菓子を頂きました。もちろん、この最古の茶園で採れた本茶(栂尾茶)であると信じています(宇治茶だったら嫌だなぁ・・)。
部屋には炉が切ってありますね。あれ?風炉先が、
先ほどの鳥獣戯画の風炉先でした。素敵ですね。当たり前ですが京間ですので、自宅で見慣れた大きさです。やはり三尺くらい高さがある風炉先は良いですね・・・(欲しい・・)
さて、石水院を出て、更に山側には、最古の茶園ということで明恵上人の七百回忌(昭和六年)に合わせて「遺香庵」という茶室(昭和時代なので茶室と表現)があります。しかしここは見学すらできませんでした。更に山の上の方に歩いて行きますと”本堂”があります。釈迦如来を本尊としているようです。
高山寺の表参道・裏参道や、この金堂に向かう石道は非常に綺麗なので散歩するにも良い感じです。紅葉シーズンは大変綺麗かと思いますが、混むのでしょうね。
十二月末でしたのでもちろん紅葉(楓)は枝になく、落ち葉がわびしく。
さて、高山寺からまたJRバスで京都市中心方面に向かいます。高山寺は北西の山側に離れているのでコースに入れてしまうとかなり時間を費やします。しかし日本のお茶の起源。そして数ある国宝と庭園は見るべき価値があると思いました。足を運ぶことができて大満足です。
◆其之八:本能寺
参考 本能寺Wiki : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA
京都市役所の近くにある本能寺にやってきました。本能寺はお茶に関してとても重要なお寺。本能寺と言えば信長が明智光秀の謀反にあったお寺で有名です。高校の歴史教科書で有名な山川出版の”もういちど読む山川日本史”が手元にありますので、その本能寺の変の記述を引用してみます。
信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するため安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(本能寺の変)
引用;もういちど読む山川日本史p142より
誰もが知っている歴史事変だとは思いますが、信長が”本能寺”に何しに来たか?はあまり知られていません。もちろん上記引用の通り、毛利氏を責めるために西側に移動したというのはありますが、実際には秀吉が毛利を責めていましたし、天下目前の信長は既に最前線で戦う状況でもなかったようです。それではなぜ、天下人目前の信長が防御も弱く、籠城も難しい本能寺に来たのか?
“信長所有の天下の茶道具三十八品を安土から本能寺に持ってきて、茶会を開く予定であった”
このあたりは真偽・通説などで今でも研究している様ですが、少なくとも所有の天下の茶道具を人に見せるために本能寺に来たとのことである。ある一説によると、道具を見せようと考えていたのは家康だったという説もあるとのこと。真偽・解釈はいろいろあるとはいえ、天下目前の信長が、その状況でも催そうとした”茶会”。いわゆる、町のチーマー男が女性にナンパで声を掛ける”お茶でもどう?”っていう気軽な”茶”では全くなく、如何に”茶会”が格式高いもので、重要なイベントであるかと十分に想像を巡らせることができます。茶道と言えば、所作が細かくて、正座が痛くてみたいな薄っぺらいイメージが一部にありますが(少なくとも少し前の私も雑にはそんな印象を持っていた)、茶とは、茶会とは天下人も戦争中の忙しさでも、刀を置いて催した重要な格式のある行事であったことが分かりますね。茶室の中では、どんなに抗争中であっても刀を置いて入ったと言われています(毒の云々あったようですが)。歴史は、勝者が都合良く書かれてきているものです。当時の”茶会”の重要さを考えると、2つの大名が戦争前に茶会で意見を交わし、双方の戦後の被害などを考えると戦争を起こすべきではない(戦争が起こらなかったので歴史書には残っていないかもしれない)と判断したような重要な茶会もあったかもしれません。そのような格式の高い茶会を、所有の天下の名器と共に、仮に家康に見せようと考えていたのなら、信長の頭には何か考えがあったのかもしれませんね。その辺りを想像するのも楽しいものです。私が茶の湯に興味を持ったのは何点かあるのですが、天下人もこぞって催した”茶会”という世界に触れてみたいというのも一点としてあります。残念なのが、その三十八個の天下の名器が全て本能寺の変で消失してしまったことです。利休よりも前の話ですから、今の千家十職の様な茶道具ではなく、高麗あたりの井戸茶碗などがあったのですかね。
本能寺は茶会・茶事の当時の”格”を知る上でも重要なお寺かなと思いました。
次に地下鉄東西線にのって醍醐寺を目指しました。
◆其之八:醍醐寺
醍醐寺に到着しました。高山寺が北西の端。本能寺が京都の中央部。そして醍醐寺は京都の南東の端。かなり移動に時間が掛かってしまって駅からダッシュしました(すぐ暗くなっちゃうので)。醍醐寺もお茶(というより秀吉に)に関わりのあるお寺です。何せ素晴らしい。写真の総門をみると直ぐに”春の桜シーズンに来れば最高”というのが想像できますね。左のしだれから、総門を越えた先が一斉に桜が舞い散るのが目に浮かびます。このお寺は非常に規模が大きく、山の上まで続いています。その山の上からこの写真のあたりまでずっと桜があったそうで、それは見事な桜であったと。そうなるとその桜を背景に、綺麗な庭園を設け、茶会を開きたくなりますよね。豪華な茶道具を使って。それは秀吉が実際に行った茶会です。
参考 醍醐寺公式サイト:http://www.daigoji.or.jp/
参考 醍醐寺Wiki : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%AF%BA
* 醍醐寺は日本の第一級の宝の宝庫です。その文化財・国宝の多さは特筆物で、上記のWikiなどをみても如何に希有な寺であるかがわかります。
この京都の旅で最も感動したのは、三宝院です。カメラ撮影禁止。なぜ禁止なのか理由は知りませんが、私も禁止にすべきだと思います。あの素晴らしい庭園は写真でみてもしょうがないからです。本当に素晴らしい。桜が舞うあの庭園での茶会が如何に豪華であったか容易に想像がつきます。利休の”わび茶”とは違う趣向かもしれませんが、こういった豪華な茶会も素敵な気がします。現在は一年に一回、三千家が順番に口切り茶事に三宝院を使っている様です。2012年は表千家だったみたいですよ。二百人規模で行われたらしく、もちろん不審庵の家元主催ですが、そんな素敵な茶事でもスーツの方もいらしたとのこと。参加したいなー、一生できないだろうなーなどと考えつつ(笑)。三宝院には売店があり、秀吉の茶事にちなんで”太閤抹茶”という金粉入りの抹茶が売っています。このブログの別記事で書いたように、金粉はめでたいのですがあまり美味しくありませんでした(個人的な意見ですが)
醍醐寺には、秀吉が使った”黄金の茶碗”=「金天目・金天目台」が保管されています。これは春の桜の季節に一般公開されるようなので、”大混雑が予想されますが”、その時期に来てみようと思います。
醍醐寺 五重塔(国宝)
平安時代936年に建立。最古の五重塔とのこと。
醍醐寺は、高山寺の京都中心部を挟んで真逆で遠かったですが、足を運んで本当に良かったです。お茶以外の観点ではかなりスルーしてしまったけど、歴史的にも文化財的にもとても大きなお寺で、もう一度ゆっくり見に来たいと思います。三宝院は茶の湯を嗜む人なら必見ですね。
さて、地下鉄東西線で京都市中央側に戻り、バスも併用して高台寺方面に向かいます。
◆其之八之一:高台寺圓徳院(えんとくいん)
高台寺圓徳院公式サイト:http://www.kodaiji.com/entoku-in/idx.shtml
秀吉の妻”ねね”さんの最後に過ごした場所です。(没後、圓徳院というお寺になった)
圓徳院の説明は上の看板に譲ります(手抜き)。茶人、秀吉の妻ですから、全国から蒼々たる茶人がこの地に訪れたようですね。
庭園が非常に綺麗でした。まぁ秀吉の妻”ねね”さんの庭ですから当たり前か。この書院で薄茶を頂けます。もちろん頂きました。この旅で何服目かわかりませんが、何度頂いても美味しいですね。非常に落ち着くお庭ですので、高台寺を訪れた際(近場でいうと清水寺を訪れた際?)は是非ここで薄茶を。この書院は大間でしたが、小間の茶室でも薄茶を頂けるようです。
さて、圓徳院を出て高台寺(本体)に向かいます。
◆其之八之二:高台寺
高台寺:秀吉の妻”ねね”が秀吉の死を弔うために建立したお寺。
公式サイト:http://www.kodaiji.com
高台寺 Wikipedia : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%B0%E5%AF%BA
お茶を訪ねる旅なので、どうしても秀吉ゆかりの場所・自院が多くなりますね。当時は別の場所の床だけとか、部屋だけとか、建物だけとか、移築とか普通にやっていたようなので、この高山寺にも茶に関わるものがありました。
江戸時代前期の京都の豪商”灰屋紹益”の夫人が作った茶室。京都の別の場所(紹益邸)から持ってきたなんと”一畳台目”の小間の茶室。かわいい建物です。この位の規模なら私の様なおよそ金持ちになるとは思えない仕事と生き方をしている人間でも将来建てることはできるかな?と勇気を持たしてくれる茶室(笑)。中は覗けませんでした。他の観光客はほぼ全員素通り。茶の湯に興味なければ、茶室に興味が沸かないですよね。
方丈の前には前庭があり、龍が。しかしライトアップが終わって片付け工事中でした。
高台寺:開山堂(左)、霊屋(おたまや:中奥)、庭園(点前)、臥龍池(右奥の池)
秀吉の弔いの寺ですから庭園などは綺麗です。ねねに頼まれて家康が号令を掛けて作らせたお寺の様ですから、権力もありますし豪華です。霊屋の方へ歩いて上って行きます。
ねねさんは、この下2mに実際に死後埋葬されています。解説のおばさまのプレゼンテーションが素敵でした。
利休”好み”の茶室と言われ、伏見城から移築したもの。利休作であるか定かではない模様。そもそも川辺(海辺?)の近くにあったらしく、秀吉は船で乗り付けて入り込んだとのこと。なぜ傘亭と言うのか?
そうです、天井の内側が傘のようになっているから傘亭です。奥の扉は船からあがって秀吉がさっと茶室に入れるように工夫されているそうです。七畳の広めの茶室。いわゆる水屋は典型的な形ではなく、炉も畳には切っていない。解説員が説明していたように、秀吉が船で遊んで帰ってきた時に一服というような、アウトドアな茶室だったのかな。いろいろな茶室があって面白いですね。
この傘亭に隣接して(土間廊下で繋がって)、時雨亭があります。
二階建ての茶室で、ねねさんが二階から京都の町を見下ろしていたとか。この2つの茶室は、”茶室”として残っているのですが、どうも”茶の湯”を感じる茶室ではなく、あくまで茶も飲める建物という印象。
この2つの茶室に関して高台寺の公式解説動画がありました。興味がありましたら。
綺麗な竹林の間を抜けて高台寺を後にし、今回の旅の最後のお寺”建仁寺”へ徒歩(早歩き)で向かいました。
京都らしい道を通りつつ。時間もそろそろ日暮れに近づきつつ。しかも、この日は忘年会が東京で入っていたのであんまり遅くまで京都には居られず。
◆其之十:建仁寺
参考:建仁寺公式サイト:http://www.kenninji.jp/
参考:建仁寺Wiki : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%BB%81%E5%AF%BA
建仁寺に到着。高台寺から遠くありません。この本坊という建物の中(というより奥庭に)に茶室があるのですが、まずは入らずに建仁寺内の目的の物を見に。
この記事の一番最初の”高山寺”の部分で、日本に茶の種を最初に持ち帰ったのは、臨済宗の開祖”栄西さん”と紹介しました。栄西さんは、中国から帰国後この建仁寺を開山しました。茶の種は、明恵上人に委ねて高山寺に茶園を作ったのですが、やはり茶の種を持ち帰ってきたのは栄西さん。そこで、この建仁寺の一角に”茶碑”があります。
ここで興味深いことがかいてあります。引用すると、
”茶は養生の仙薬なり”
”茶は延齢の妙術なり”
「喫茶養生記」より
厳しい修行の”禅”において、茶を中国から持たされたのは、修行僧が茶を飲むことで少しでも滋養になるようにと。おそらく中国で既に茶の効用が周知されていたのでしょうね。現代の最近の研究でも抹茶は体に良いことなどが分かってきていますし、不思議な飲みものですね。栄西さんは上記の通り、妙術な薬と表現しています。
さて法堂を横目に上述の本坊に入ります。本坊には、国宝の風神雷神図などがあります。素晴らしかったです。更に奥の庭に茶室がありました。
この解説の通り、利休高弟の一人”東陽坊長盛”が、北野天満宮(京都の旅一日目の記事を参照)で行われた北野大茶会で用意された数寄屋とのこと。やはり移築してきたのでしょうね。二畳台目の小間で、水屋もしっかりあるようで(水屋は見えなかった)、まさに利休の流れをくむ茶の湯を感じる数寄屋でした。
炉が切ってありますね。まさに教科書通りというか落ち着いた二畳台目の数寄屋でした。素敵でした。こういう数寄屋を将来建てたいなぁと思います。
そういえば、樂焼初代の”長次郎”の作品で”東陽坊”という黒樂茶碗がありますよね。茶碗の東陽坊は、この数寄屋の(利休の弟子の)東陽坊が所有していた樂茶碗とのことです。
酷い写真ですが東陽坊の裏側に”東陽坊”の解説がありました。とても読むのが困難なのでクリックして拡大していただければと思います。
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さて、建仁寺を後に京都駅に向かいました。今回の”茶”・”茶の湯”を訪ねる京都の旅で見たかったものは全て回ることができました。茶の種を持ち帰った栄西さんの茶碑@建仁寺、その茶の種で作った最古の茶園@高山寺。そして茶会を”格の高い行事”として楽しんでいた天下人”信長”と”秀吉”。その二人に茶頭として仕え、今私が稽古をうけている表千家を含む三千家の開祖でわび茶を大成させた利休に関わる寺院、塔頭などを回ることができました。少々二日間では大急ぎのスケジュールで少し詰め込みすぎましたが、非常に参考になり、そして興味深く触れることができました。茶の湯を学び始めたばかりですが、何か遠かった”茶”が少し身近に感じることができました。またお稽古に身が入ると思います。醍醐寺など、もっとゆっくり見たいところもありますし、宇治や妙喜庵の待庵など見ていない場所もありますので、また京都を赴こうと思います。良い旅になりました。
2013/3/9 追記:再び京都に行ってきました。その記事を書きました。第二回:続”茶の湯”を辿りに京都へ赴く(一日目)
◆参考文献(*各書籍はアマゾンジャパンにリンクが貼られていますが、アフィリエートなどもちろんやっておりません)
[1] “よくわかる茶道の歴史“, 谷端昭夫
[2] “図説 茶室の歴史―基礎がわかるQ&A“, 中村昌生
[3] “定本 茶の湯表千家“, 千宗左
[4] “利休にたずねよ“, 山本兼一
[5] “千家十職 十三代黒田正玄と竹の茶道具“, 十三代 黒田 正玄
[6] “ちゃわんや: 二人の息子と若き人々へ”, 樂吉左衞門
[7] “もういちど読む山川日本史“, 山川出版社
[8] “千利休 四百年”, 毎日グラフ別冊
[9] “茶経(全訳注)“, 布目 潮フウ