”茶の起源”を辿りに京都へ赴く(一日目)

茶の湯を始めたばかりですが、最近は暇があればいろいろ茶・茶の湯のことを調べています。お茶の歴史もそうですが、茶道具やお茶に関わる歴史上の人物も。そうなるとやはりその起源は京都。そこで京都に”茶”を訪ねて行って参りました。朝七時前に東京駅発の新幹線のぞみで京都へ。九時に京都に着いているのですから便利ですね。たった2時間少しで京都に着けるのですから、リニアモーターカーなんぞ要らないでしょう。雨が心配でしたが路面が濡れている程度で一日何とかもちました。

(全ての写真はクリックすると拡大)

 

 

◆其之一:表千家不審庵

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表千家不審庵 正門

公式サイト:http://www.omotesenke.com/

まずは、やはり不審庵に行かねばなりません。私は表千家のお稽古をしておりますので、その総本山がこの不審庵です。実際にはこの中にある不審庵という茶室があるのですが、今は建物群全体を指すことも多いようです。千家の初祖は、言うまでも無く千利休(1522-91)。織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕え、”わび茶”を大成した人物です。その利休の道統を伝える本家として、現在十四代而妙斎家元に受け継がれています。

「不審花開今日春」(ふしんはなひらくこんにちのはる)

不審とは、”いぶかしい”という意味らしく、この茶室の心を示しています。不審庵には、私のような者が入ることも、見ることもできません(あたりまえ)とりあえず、写真のような外観だけですが足を運べて良かったです。ちなみに隣には、裏千家の今日庵もあります。

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不審庵表門の脇に”千利休居士遺蹟不審庵”の石碑がありました。

不審庵の左側に裏口の様な入り口があったのですが、そこに2つの真っ赤なバケツがありました。朝早かったので何か掃除にでも使っていたのかもしれません。現代的なバケツですが、そこの2つの置き方が実に美しくさすがという感じでした。私が覗いてそのバケツを見ると想定してとは思えないので、どんな物の置き方でも気を遣っているのでしょうね。

さて、不審庵の回りには、多くの茶道具商、京菓子司がありました。

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清昌堂やました

やましたさんに寄って、いろいろお話をお聞きしました。このやましたさんもそうですが、京都の茶道具商は凄いですね。高価な茶道具ばかりでとても手が出せないものばかりでした。もちろんそれだけ良い茶道具を多く扱っていました。とはいえ、せっかく京都まで来たので、

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袋師友湖(土田友湖:つちだゆうこ)紫帛紗

千家十職の袋師、土田友湖さんの帛紗をがんばって買ってきました。おそらく十職さんの茶道具で私が手が出せるのはこの紫帛紗くらいかな。素敵な手触りで、普段お稽古で使っている帛紗よりも厚くてふっくらしています。普段の稽古の際には抹茶が少しずつ付いてしまうので普段使いは避けて・・・・・、棗、茶杓のお清めと帛紗さばきの連中などに使用し、茶会の時で使える日が来れば良いなと。

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さっそく、京菓子司”俵屋吉富”さん発見。干菓子を買いました。右の入り口から入る”茶ろん たわらや”で、俵屋の生菓子と抹茶(薄茶)を頂きました。
今回の旅で、京菓子司、茶舗、茶道具店は本当に沢山あり見かけては覗いてみました。

不審庵の近くに、表千家会館がありました。会館の一階には、展示室があり千家十職の内、樂家の茶碗を始め6家(?)くらいの茶道具が飾ってありました。どれも美しいものばかり(撮影禁止)。会館では表千家監修(不審庵文庫編)の”茶の湯こころと美”の書籍を購入。同名サイトの書籍化とのこと。

 

 

◆其之二:樂焼家元、樂美術館

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樂焼家元 樂吉左衛門宅

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樂美術館 入り口札

利休が瓦屋の長次郎に作らせた茶の湯の為の抹茶茶碗が”樂焼(楽焼)”です。その樂家家元の自宅と隣に併設されている樂美術館に行ってきました。不審庵から徒歩で少し歩いたところ。

樂美術館公式サイト:http://www.raku-yaki.or.jp/museum/index.html

ちょうど12/24まで展示会「秋期特別展 肌をめでる。樂茶碗の陶肌 大西釜の鉄肌 一閑・宋哲の漆肌」のをやっており、長次郎から始まる樂焼代々の素晴らしい作品の他に、飛来一閑一閑張の作品達、中村宋哲の棗、大西清右衛門の釜など、千家十職の数々の作品を展示しており、美しく技巧的な作品に感動しました。本当に素晴らしいものばかりで、私のような知識の乏しい者でもその美しさにうっとりでした。一閑張の紙でつくったお茶碗や棗などすごい技術で、現代のエンジニアの視点でみてもこれは凄いなと。東京の五島美術館などでたまに展示される樂茶碗を見るよりも、やはり樂美術館に来るのが最も作品も多く手っ取り早いですね。とても購入出来る金額(余裕で茶碗一個で数百万円越え)ではありませんが、良い茶道具を見ておくのは悪くないかなと。

美術館受付で現”樂吉左衛門”さんが書いた「ちゃわんや 二人の息子と若き人々へ」の書籍を購入。樂家という名家に生まれたからにはその家系・技術を受け継いでいかなければなりません。現、吉左衛門さんがその襲名以前から現代に至るまで、そしてお二人のご子息に向けたメッセージ本とも言える書籍でまだ全部読んでおりませんが、とても興味深い内容です。作品も多く見られますし樂家を継ぐという葛藤なども読み取れます。次代は私と同じ世代の方なので、他の十職家と共にこれからも続いていくと良いですね。

さて、市バス・地下鉄など乗り放題のカードを買って置いたので、さっとバスに乗って北上し大徳寺を目指しました。

 

 

 

 

 

◆其之三:龍寶山 大徳寺

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(クリックすると拡大)

大徳寺公式サイト:http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/
大徳寺Wikipedia : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BE%B3%E5%AF%BA

写真が酷いのですが、大徳寺は、数多くの塔頭(たっちゅう)=”院”からなっており、また多くの山門で囲まれています。臨済宗大徳寺派の総本山のお寺ですが、お茶と非常に関わりの多いお寺。ウチの実家は真言宗なので、そもそも禅宗でもなく、しかも天才肌でエンジニア気質の空海、密教の考え方は好きですが、お茶と関わりが強いのは禅宗。とくに利休とは切っても切れない関係の寺です。秀吉が立腹して利休に切腹を迫ったのもこの大徳寺の山門に利休像(現在は裏千家が所有?)が置かれ、その下を秀吉がくぐらなければいけないのを不満に思ったからと言われていますね。大徳寺の各門は重要文化財に指定され、唐門に関しては国宝となっています。茶に関わりのある塔頭(院)に向かいました(しかも走って)

 

◆其之三之一:大徳寺 聚光院

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大徳寺聚光院 山門(拝観謝絶)

聚光院Wikipedia :http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%9A%E5%85%89%E9%99%A2

利休が開祖の笑嶺和尚に参禅したことから、この聚光院には、利休の墓をはじめ、三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の歴代の墓所となっています。拝観謝絶で私の様な無関係の物は中に入れません。先日、お亡くなりになられた久田宗匠もこちらでご葬儀があったようです。

 

◆其之三之二:大徳寺 三玄院

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大徳寺三玄院 山門(拝観謝絶)

石田三成らが建立した三玄院ですが、こちらも拝観謝絶。沢庵さんをはじめ、利休七哲の一人、「織部好み」の古田織部もここで参禅しています。また「織部好み」の茶室も中にあるようです。このように大徳寺には茶に関係する塔頭(院)が数多くあるのですが、なかなか拝観できません。

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大徳寺内は松などが植えられ非常に綺麗でした。大きなお寺ですので、ここは市民のショートカット路らしく、この道も自転車がどんどん走っていました。

 

◆其之三之三:大徳寺 総見院

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大徳寺総見院 山門(拝観謝絶)

総見院Wikipedia : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E8%A6%8B%E9%99%A2_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)

これまた拝観謝絶。拝観謝絶の塔頭の山門写真を載せても意味がないのですが、一応”茶”に関わるものを赴くというのが今回の旅の趣旨なので掲載。この総見院も”茶”にとって非常に重要な塔頭です。本能寺の変で織田信長が突然倒れた訳ですが、その後の天下人に上がろうとする後継の覇権争いは熾烈であったとのこと。その時に、秀吉が利休などの助言などを踏まえて、盛大に執り行い、そしてこの総見院もその為に建立した塔頭とのこと。つまり信長のお墓(の一つ)がここにあります。利休は、もともと信長の茶頭でしたから、茶とは深く関わりがあります。二日目に本能寺に赴きましたので、そこで少し書きます。また開祖になる蒲庵古渓は利休と親交が深かったとのこと。総見院はたまに一般公開されるようですね。

 

◆其之三之四:大徳寺 高桐院

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大徳寺 高桐院 Wikipedia : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A1%90%E9%99%A2

JR東海の1996年のCMにもなった有名な大徳寺の高桐院。庭が極めて美しいです。この時期も素敵でしたが、下の参考動画にあるように紅葉が実に美しい院の様です。激混みが予想されますがやはり秋に来てみたいですね。

参考:JR東海1996年10月 CM ”そうだ京都に行こう – 高桐院” @ Youtube

さて、紅葉で有名ですが高桐院はお茶に極めて関わりのある塔頭です。開祖は利休七哲の一人の細川忠興。妻は、明智光秀の娘の細川ガラシャが有名で、忠興とともにガラシャのお墓も高桐院にあります。

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これを読むと利休との関わりがよく分かりますね。また小説「利休にたずねよ」でも利休と忠興との遺品のやりとりの場面は面白いですよね。

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蹲踞(つくばい)

高桐院の奥の綺麗な露地には蹲踞ももちろんありました。今の京都がどれほど水が綺麗かわかりませんが、水の綺麗な地域であればこういった蹲踞は非常に趣があって良いですね。

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関守石(せきもりいし)

露地でこれ以上先は行ってくれるなという意味の関守石もちゃんとありました。

さて、庭を一回りして屋中へ。

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大徳寺高桐院「意北軒」 慶長七年(1602) 利休邸より移築

炉が切ってありますので数寄屋(茶室という言葉は江戸時代以降というのを最近知り、この部屋の時代を考え茶室ではなく数寄屋と表現)かな?と思いましたが、書院とのこと。この部屋は利休の邸宅より移築したものらしく、利休が使っていた書院かもしれませんね。移築後、高桐院開祖の玉甫和尚が書院として使っていたそうです。凄く力を感じる部屋ですよね。

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大徳寺高桐院 数寄屋「松向軒」
寛永五年(1628)建立 細川忠興 六十六歳の作

さて、奥に行きますと水屋があり、その隣に細川忠興の数寄屋がありました。二畳台目。利休の茶の湯を中実に継承したと言われる忠興の数寄屋ですからとても興味深く拝見しました。待庵ほどではないですが狭い数寄屋でした。そして昼間なのに暗く。

この写真の撮影ポイント(中は立ち入り禁止)の右側に水屋があり、背中には先ほどの書院「意北軒」があります。意北軒にも炉が切ってあったので、水屋の位置も含め意北軒でも茶を点てることもあったのでしょうね。

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高桐院の数寄屋を見て大満足した後に、高桐院の本堂前庭で薄茶と茶菓子を頂きました(有料)
御菓子も美味しく、素晴らしい庭を見ながら。

 

 

◆其之五:北野天満宮

非常に感銘を受けた高桐院から北野天満宮に向かいました。秀吉が日本中の茶人・数寄者を集め、一般大衆に茶の湯を見せたという”北野大茶湯”の会場です。

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北野天満宮 一の鳥居

ここにタクシーが乗り付けるのは残念ですが、北野天満宮の入り口。

参考 北野天満宮Wikipedia : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE

日が短くこの辺りからは基本早歩きです。やはり冬の京都はあまり回れないですね・・。

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北野天満宮 太閤井戸

秀吉が催した、日本中・世界中の数寄者・茶人を呼んでの大規模茶の湯イベント”北野大茶湯”。その時に使った井戸が今でも残っています。

参考 北野大茶湯Wiki :http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A7%E8%8C%B6%E4%BC%9A

上記のWikiから秀吉の告知を引用しますが、

* 北野の森において10月1日(11月1日)より10日間、大規模な茶会を開き、秀吉が自らの名物(茶道具)を数寄執心の者に公開すること。
* 茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
* 座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、服装・履物・席次などは一切問わないものとする。
* 日本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも参加すること。
* 遠国からの者に配慮して10日まで開催することにしたこと。
* こうした配慮にも関わらず参加しない者は、今後茶湯を行ってはならない。
* 茶湯の心得がある者に対しては場所・出自を問わずに秀吉が目の前で茶を立てること。

秀吉が身分を越えて面白い茶を点てる人を集めたイベントの様で非常に興味深いです。また、先述の細川忠興の数寄屋”松向軒”は、この北野大茶湯で披露した部屋の様です。

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北野天満宮の茶の湯に関わるのはこの井戸がメインですがせっかくですので、国宝の拝殿などでお参り。どんどん日が落ちてきていましたのでこの辺からダッシュ。

 

 

◆其之六:聚楽第址

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聚楽第址 石碑 「此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」

参考 聚楽第Wiki : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%9A%E6%A5%BD%E7%AC%AC

秀吉が平安京の大内裏跡に建てた邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」の跡地。今は石碑のみ。壁は金箔で天守閣もあったとされる超突貫工事の豪華な邸宅と言われていますが八年しか存在していなかったため不明な点も多いとのこと。ちなみに、上述の”樂家”の初代長次郎は、この聚楽第の瓦を作っていた職人と言われています。

何せ石碑しかないので、写真を撮って更に移動。今度は陰陽師で変な感じで有名になった安倍晴明の晴明神社に徒歩で向かいました。もう回りは真っ暗。

 

◆其之七:千利休居士聚楽屋敷趾@晴明神社

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千利休居士聚楽屋敷趾の石碑(晴明神社内)

安倍晴明で有名な晴明神社は最近になって利休の最後の邸宅があった場所と確認されたそうです。その為にこの石碑が。つまり、利休が秀吉の嫉妬(?)により切腹をしたのもこの場所らしいです。

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晴明神社境内にある晴明井(井戸)。もう陰陽師ブームが起因か?デザインが胡散臭すぎる・・・(笑)
この井戸から利休も水を汲んでいたと考えられている様です。利休のわび茶がこの水から生まれていたと考えると興味がわきますね。

さて、さすがに回りも真っ暗で寺の拝観時間はとっくに過ぎているので、一日目はこの辺りで終了。その後祇園で京料理を頂きました。美味しかった!その後ビジネスホテルで一泊(前日に京都に行くことを決めたので、ビジネスホテルくらいしか予約できなかった・・・)

一日目は主に利休を中心とした茶に関わる場所に足を運びましたが、二日目はもっと時代を遡り、日本に茶が入ってきた頃を巡りました。二日目は次の記事にて。

2013/01/06 二日目の記事を追記”茶の起源”を辿りに京都へ赴く(二日目)

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